年寄りは、世相・他人の才能を鑑賞する事が役割だ

今朝に気がついた。自分は労働者だったので、自分の手足を使い、あくせく動く・働くように脳が強力にプログラムされていた。おそらく定年後の再雇用を希望する人達も同じだろう。

しかし、年齢能力的にもう限界に近かったのだ。今、しがみ付いているピアノも"お爺ちゃんの趣味"としてはとても上手なレベルだが、人を圧倒するような、人を集められるようなレベルでは到底ない。

この脳内プログラムと年齢能力のギャップに大きな問題がある。私の場合は、"現役・若いときと同じように出来る"という勘違いモチベーションで、自分の創作の為の情報収集や、環境を探す為に行動してしまう。その一方で、随分と失敗し限界を掌握し始めている最近は、"無駄だ"と、冷静な自分が抑止しにかかる。だからパリへの渡航が嫌になっているんだ。やっとわかった!。

マインドを"鑑賞"に切りかえた。ちょっと県立美術館に立ち寄るようなモチベーションだ。とても気が楽になった。そうだ"観光・遊び"を楽しめば良いだけだ。定年・リタイアするとはこういう事だったんだ。この2年間は、まるで起業するかのようなマインドで趣味開拓をしてしまっていた。なんの為のリタイアかまったく理解できていなかった。

先日からの記事で「世の中が自分とは無関係に存在し変化している」と書いたが、これぞリタイア・マン、ご隠居の心意気なんだ。勤労によって動いている社会の構成員とは別の視線を持つことは自然で、それを外様のように感じて孤立しているように勘違いしているだけなのだ。

だから、年寄りは"鑑賞者"で良いのだ。欧州中を毎週のようにドライブしてまわっているパリ在住のお婆ちゃんも、近所に住んでいて町内史をまとめているから内情を教えろと和菓子屋に詰め寄っていた上京区のお爺ちゃんも、電車で見かけるハイエンド・アマ写真家のお爺ちゃんも、"鑑賞者"の立場だと理解できた。それをとても能動的な行動・趣味に落し込んでいるのは見事だとおもった。金沢で勝手に新聞をつくってばら撒いている先輩も、勤労・金の循環の尺度では"世相の鑑賞者"の立場だ。

今、ブログ記事と並行してパリの写真アトリエの住所をまとめているが、作業が楽しくなってきた。"鑑賞者"として訪問するので、「この仕組みを自分も利用できないか?」とか考えなくて良いし、若い才能を批判したり嫉妬したりする感情もでてこないだろう。

本当に自分は何様だったのだろうと、自惚れて、勝手に自己を追い詰めて苦しめていた自分を振り返って呆れてしまった。飛行機の中でシニアのツアーを目撃して「あのようになりたくないな」と高飛車に自惚れていたが、それは大間違いだった。「あのように大事にされたいな」が正しいものの見方だった。「何でも自力で解決してやる」は貧乏な若者の考え方だ。私はもう卒業したのだから、敬老される立場にシフトしなければならない。

しかしだな、政府が無理やり推進している70歳までの雇用延長とはなんなのだ?。半世紀くらいでは人間の能力はそんなに向上していない。55歳を過ぎたら、爺さん・婆さんだ。役職定年も廃止するようだし、本来は敬老されるべき人間が、若者と同じ土俵で相撲をとるはめになってしまっている。"鑑賞者"ではなく"労働者"として社会参加継続を強制される。「男は仕事が生き甲斐、だから定年すると鬱になる」と言う詭弁までネットで見かける。いや~、労働しているほうがはるかにストレスが多いよ、扇動してはいけないよ。「本当にご苦労様でした、これからは私たちが頑張りますので、どうか安心くださいませ」と"鑑賞者"側への移動をつい最近まで促していたよね。

世間の情勢がどうであれ、私は完全に隠居して、のんびりと世間・世相を"鑑賞"させて頂く。社会参加なんて考えたら、能力が無くなった自分が悲しくなるだけだし、それを克服することも困難なのに後戻りできなくなり、日々の遂行ノルマが恐怖と苦痛になることは明確だ。

こうマインドを切り替えることができたので、パリ行きが少しだけ楽しくなってきた。ただし費用対効果は最悪だな。この金を最新・爆速のPC購入に充当させた方が遥かに賢かった。お勉強代としてはかなり高くついてしまった。

いかん!、いかん!、こう考えてしまうことが"勤労者"側なのだ。老人は老人らしく、「暇つぶしに随分と金をかけてしまったが、まあ、たまにはよかろう」とゆったり構えなければ。子供の頃から身にこびり付いた貧乏性はとれないな、この根性では余生を"快適"に楽しめないぞ。もっと周りの先輩たちを観察して見習わなければ。


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by 1959-01-28 | 2018-11-01 11:03 | 雑感・お知らせ・老人一人暮らし | Comments(0)